あいたいわ

「あい」と「たいわ」をテーマにしたブログ

講演会が終わりました

講演会が終わって

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講演会が終わって、振り返りをしようと思いつつもなかなか気持ちが前向きにならず、更新ができずにいました。

 

講演会はとてもよいものになったように思っています。

多くの方が来てくださって、涙をぬぐう場面も多くありました。

 

私が講演会で伝えたこと。

それは「生きる覚悟」の意味です。

 

私たちは自分以外の多くの物事によって動かされているとも考えることができます。

しかし、そこで動かなければならないのはどう考えても私自身でしかありません。

生きていくのは自分なのだという気持ちがなければ、人は自分の人生に後悔します。

もっとこうしておけばよかった。

あのとき、あの人がこういった。

そんな言葉で人生を振り返ることになります。

 

罪のない子供たちへの負債

今の大人たちは未来のある子供たちを追いやっています。

それも、弱い立ち位置に。

私もそうでしたが、

「社会出たこともないようなお前が偉そうなことを言うな」

「子供なんだから黙ってなさい」

といわれ、今の子供たちや若者は無理やり、社会の決めた方向へ前ならえをさせられます。

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子供たちは非常に感受性が豊かです。

そして素直です。

そうした子供たちがもしも、大人たちのそうした圧力を受けたらどうなるでしょうか。

もちろん、大人たちにそう言わせている社会システムがあるということも問題です。しかし、その社会システムの中で最も傷ついているのは紛れもない罪のない子供たちなのです。

 

罪のない子供たちがこれ以上苦しむことがあってはならないのです。

 

私は罪のない子供・若者を少しでも救出したいと考えています。

社会的システムによって苦しい立場にある子供たちが少しでも休んで前向きに日々を生きるためのすべを身につける場所が必要だなと感じています。

私はそれは自然とふれあい、動物に触れ、人に触れることだと感じています。

 

汚染地にすむ子供たちが保養をするように、

腐った社会システムの中に住む子供たちもやはり保養の場所が必要だと確信しています。

 

子供たちの心を回復させるために、想像力を取り戻すための活動をしていきたいと私は考えています。ただ、一人で活動するのはあまりにも無理があります。皆さんの協力が必要です。

 

ひとまず、道東方面で、生きるために必要な一戸建て住居と畑にできる敷地(農薬等を撒いていない)の確保をしたいと考えています。

 

今回の講演会のカンパは今後の講演活動の資金源にさせていただくとともに、シェルターづくりや、私が個人的に応援している団体へ寄付にあてさせていただきます。

 

今後ともよろしくお願いいたします。

 

既存の社会システムを手放す

既存のシステムを手放す3つの方法

 

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既存のシステムはすなわち、私たちの日常の常識だともいわれているわけですが、それがなかなかに面倒なものだなと思うのです。

常識が本当に正しいかどうかということはわかりません。特に、今日の日本において常識はかなり歪んでいるように思います。

結局私も既存の社会システムをパァッと捨てれるほどの覚悟は無いです。でも、捨てられない自分の気持ちに蓋をするんじゃなくて、ちゃんと向き合って、じゃぁどこからならできるの?なにがしたいの?って自問自答して行動することが大切だと思ってます。

捨てられない気持ち、本当は手放したほうがいいこと、改めたほうがいいことについて指摘されたときに、もやもやした言葉が出てくるときほど、いやなものはありません。自分ではそれが良くないことだということをわかっているからです。

物事を改めたほうがいいと思っていても改められないということについては自分にも相手にも、嘘をつかないことが大切だと思うのです。相手からそれをしてきされたとしてもこころから、「そうだよね。ありがとう。」と言えればよいなと思うのです。

自分を何をしたくて、何をしたくないのか

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自分が何をしたくて何をしたくないのかということを知ることは既存の社会システムを手放すためにはとても必要なことです。私は自分が本当は何をしたかったのかということをよく自問自答した7年間を過ごしました。

まだ、山形に避難したころは怒りや悲しみ、むなしさのほうが勝っていて、本当に自分が何をしたいのかということを考えるような余裕はありませんでした。むしろ、生きるという希望すらを失っていて、死ぬことばかりを考えていたように思います。

余談ですが、私が死ぬことばかりを考えていた理由は、既存の社会システムの中で大人たちがいかに嘘をつき、子供たちの命を大切にしないかということを知ったからです。人の尊厳を無視し、自分たちの都合でしか考えない大人たちの都合のよさに愕然としてしまったのです。

中学校卒業するまでは私は大人に対してなんとなく、違和感を感じながらも、正しい存在だと考えていました。しかし、震災と原発事故が起こり、大人も一人の人間なのだということを痛感したのです。本当に正しい人間などいないのではないかと。

そして私はいつの日か、大人と子供というくくりすら、社会的な枠組みでしかないということも考えるようになりました。年齢など関係ないはずだと思いました。それは当時、お前は子供なのだからといって子供たちや若者に対して口封じをした大人たちが身の回りにいたからです。

私の場合、自分が何をしたくて、何をしたくなかったのかといえば、一番は自由に生きたいということであり、誰かに支配されるような生き方をしたくないということでした。これはあくまでも大きなテーマであり、ここからさらに、そのためにはどうしたらいいのかということをどんどん突き詰めていきました。

自分の思いと逆行することはしないようにしようとも決めました。自分の心苦しいことをすればすぐに気持ちが悪くなってしまうからです。自分のご機嫌は自分でとりましょうとは言いますが、なかなかそれができないひとが多いように感じています。

それは、自分が本当は何をしたいのか、何をしたくないのかということが明確でないからのような気がします。

何ができて、何ができないのか

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何ができて何が出来ないのかということも既存の社会システムを手放すためには必要なことです。既存の社会システムを手放すというのは自由を求めるということでもあります。それは、自分がなすことには自分に責任があるという事を自覚する必要があるということでもあります。

何ができて、何が出来ないのかということは、実は自分が実際にやってみないとわからないことなのです。何をしたくて、何をしたくないのかということを明確にしたのちに、実際に行動に起こしてみます。すると、実際、自分がしたかったこと(理想)との差があきらかになります。本当はこうしたかったけど、できなかったということもあります。

大切なのは、この乖離についてもまずは認めるということです。できなかった理由探しをする前に、まずは出来なかったことを素直に認めます。それから、それができなかったからと、やりたいことをあきらめる必要はありません。別な方法でそのやりたいことに近づくこともできるからです。突破口を見つけること大切です。

誰といて、どこにいたいのか

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人間関係と環境というのは既存の社会システムに大きく影響しています。自分がかかわる人間によっては自分の価値観までが変わることもあります。それは良くも悪くもです。また、環境も自分の人生を左右します。自分がそのとき本当にやりたいこと、できることに対して環境がミスマッチしているとこれもまたちぐはぐなことが起こります。

たとえば、「自然豊かなところで動物と過ごしたい」「動物たちのケアができる」という状況に対して、環境が「都会で動物と一緒に入れないアパートに住んでいる」

という状況だとなかなかやりたいことが心置きなくできるとは言えないということなのです。

また、人間関係にしても、自分の興味のある分野の集会に出てみるということは大前提ですし、自分自身が声を上げて活動に力を入れるということもありでしょう。しかし、人脈というのは不思議なところでつながることもよくある話です。

自分が予期していなかった分野が実は自分がやりたいことにつながっていたということはよくあることです。はじめから意味がないことだと思わず、興味をもってまずは足を踏み込んでみるとよいと思います。

根っこはどこにあるのか

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根っこはいつも自分の奥深いところにあります。前のブログ(以下参照)でもよく話していたように、この国の社会システムは木に例えることができます。

nostalgia311.hatenablog.com

全ての事は木に例えられます。

それは本当に根を変えるために必要なことなのかどうかということを私たちは自問自答する必要があると思うのです。

また、社会システムを変えるために特に「〇〇反対!」というような活動をしたりすることもあるかもしれません。しかし、その文言だけでは何も変わらないのです。今の社会システムで働き手となっているのはやはり男性です。昔と状況は激変したとはいえ、相変わらず女性の立場が尊重されているとはいいがたいです。俗に「男社会」とも呼ばれている構造の会社や団体、政界にたいして、ただ単に「〇〇反対!」ということを言っても無駄である可能性が非常に高いと思います。

よく考えてみてください。「なんでいつも同じこと言わせるの!」と旦那さんや、彼氏さんによく言ってしまうという方もいると思います。しかし、ふたを開けてみれば、男性は「そんなこと言われても…じゃあ、どうしたらいいの?」と思っているようです。「やればいいのよ、いわれたことを」という意見もあるかもしれませんが、これって社会的に今通用するかどうかということを考えてみてください。

つまり、何らかの活動をする場合に、「○○反対!」「どうして〇〇してくれないの?!」ということだけを伝えるとお互いに消化不良になりやすいような気がするのです。

大切なのは対話をするということだと思います。何に困っていて、具体的に何をしてほしいのかというようなよく起業で書くような企画書を準備したほうがいいということです。思っていることが正しくとも、ただ単に苦しいということを伝えるだけでは残念ながら今の日本社会ではただの「遠吠え」として認識されてしまうのです。もちろん、これは人々に対する想像力の欠如がそうさせているのであって、声を上げている人たちに罪があるわけではありません。

ただ、今の現状として、できることはその「企画書を提出する・発表する」ということなのだと思います。

(旦那さん・パートナーさんにも有効な方法です。ちょっとパワーがいりますが、毎度毎度怒るよりかは気持ちがいいと思います。)

既存の社会システムを手放すことで本当の自由を手に入れる

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既存の社会システムを手放すということは決して楽なことではありません。特に、この国の教育は幼いころから社会で労働者として働くための洗脳だともいえるくらいに子供たちの想像力を奪っていきます。画一化されたものを当たり前のものだと教え、そうではないものを排除したり、無視したりしようとします。

人々の想像力がなくなったこの国に、おもてなしということができるかといえば無理でしょう。できるのは忖度でしょうか。

ヘイトがまかり通り、独断と偏見による政治が行われる。それに従わなければ、反日だといわれる。それが今日の日本の姿です。

もちろん、それはおかしいと、声をあげ、実際に行動に起こしているという人たちもいます。そうした人たちを私は心から尊敬していますし、自分もその一人でありたいとおもって行動を起こしています。

一人一人の力は小さいですが、それぞれの行動は必ずつながっていきます。

久々の更新になりましたが、またぼちぼち書いていきたいと思っています。

来月からは講演会の予定などが入って忙しくなりそうです。

もしかしたら今年、本を出版するかもしれません。原稿頑張って書き進めていきます。

また読みに来てくださいねー!

今年もよく頑張りました★(^_-)-☆

2017年も終わり

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今年は自分が大きく成長した一年間でした。

いろんなことにチャレンジしてきました。

 

ながーいトンネルの先の光をようやく浴びることができた一年でした。

トンネルっていつか終わるんだなって。

そのタイミングは人によって違う。

トンネルが終わって、私は今一度、いろんな人に感謝しています。

 

いろんな人にであって、たくさんの刺激をもらいました。

 

本当に充実した一年間でした。

来年もはさらに自分を大切にした一年間にしたいなと思っています。

 

来年の目標

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来年の目標は書き出して、毎年手帳に挟んだりして持ち運んでいます。

大きく言えば来年の目標はよりたくさんの人に、

愛と光を広く伝えること。

私は悲しみや憎しみを広げたいのではない。

生きる希望や、愛、光。

私たちは完璧でなくとも、それを作り出す力を持っているはず。

それは年齢に関係なく。

深く、広く、祈りをもって過ごしていきたいです。

 

認識が存在を作り出す

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認識したことは現実になります。

存在を作り出します。

私たちが愛に基づいて行動できれば、そのように祈れば、

必ず、そのような世界になります。

 

私はあきらめなければ道は開けることを知っていますし、

神様は乗り越えられる人にしか試練を与えないことも知っています。

 

すべてのことには意味があります。

 

今、今日、このときに、

外で過ごしている人。

悲しみの課にある人。

戦火の中にある人、

苦しみの中にある人、

それでも年は変わる。

 

でも、私たちが本当に忘れてはいけないこと、

大切にしなければならないことは変わりません。

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悔い改めと祈りと感謝をもって。。。

皆さんよいお年を。

来年もよろしくお願いいたします。

人として繋がりたい

謝れる人

ごめんねと言える

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私達は一生懸命声をあげてきたんだよ。

。。それなのに。。それなのに。。
本当に、ごめんね。。


目の前で、Twitterで、メッセンジャーで、そんなことを言われたことがある。泣かれたこともある。

 

私はこんな風にごめんねを言える人と関われていることに私は本当に感謝しています。

 

事故が起こってから、
戦争が起こってから、
そんなことを言っても戻ってこない故郷と、
戻ってこない大切な人がいる。

 

それがわかってるからこそ言える一言だと思うから。。そのひとの悲しみや憎しみ、怒りが、深く理解できる人だと思うから。

 

今、自分の周りにはそういう人がバックについていてくれる。

本当に心強いです。

 

私がまだ15の時に被災して、今、こうして逃げて、自分で考えて生活をできるようになったのも、こうした皆さんのおかげなのです。

 

確かにたくさん私は傷ついたし、

大人のことも信じれなくなった。

 

でも、それは私が、人として、いろんな人とかかわる再出発としてすごく必要なことだったとも思うし、あの震災と原発事故があってよかったとはいえないけれども、私にとって大きな気づきと学びを与えてくれたと思っています。

 

 社会的な常識、垣根を超えた人と人とのかかわり

もうレッテルなんて気にしている場合ではない

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大人、子供の垣根ももちろん、
社会的地位もとっぱらって、
私は人としてみなさんと繋がりたいし、
活動していきたい。
対話していきたいし、
本当の優しさとか愛を実行していきたいです。

 

レッテルなんて、国家なんて、超えて本来はつながらなければ意味がない。

もう、時代は戦う時代から、対話と愛を実行する平和の時代へとシフトしているのです。

 

核廃絶と平和は愛と対話とワンネスが作り出す

ノーベル平和賞を受賞したサーローさんのスピーチ全文をまとめていらっしゃる方がいたのでリンクを載せておきます。

blog.livedoor.jp

生死に関わる問題について対話の余地すら本来はないと考えています。

人としてダメなものは駄目だということを言えない。

目の前に死のうとしている人に、大丈夫?といえないし、それは良くないということも言えないほど。

 

そして、それを子供たちに人として教えることができない世の中なのです。

強いて言えば、本来教えなくてもいいはずのことを教えなければならないほどに、この世の中は衰退しているし、末期。

 

今の世の中、相手の背景すら知ることもなく、頭ごなしに否定して、自分の正しさを押し付けようとします。それは私自身も人のことは言えず、いつの間にか、自分の正論を振りかざすような形で相手に話をしていることがしばしばあるのです。

 

私が大切だと思うのは、この言いようのない、虚無感にさいなまれて、被害者として沈黙するのではなく、ともに、ゆるし、悔い改め、お互いがどうしたら前に進めるのかを考え、行動することだと思うのです。

 

それがいかに人にとっての尊厳であって、守られなくてはならないものであるかということを伝えなければならないと思うのです。

 

一人ひとり、その立場、立ち位置に立つのに、タイミングが異なるかもしれません。それは、ある意味仕方のないことです。ほかのだれかがその人に気が付かせたい、気が付かせようなどということは傲慢なのですから。

 

サーローさんは、何かをするように強制しているわけではないのだということがスピーチからもよくわかります。

 

切なる祈りと、想いのスピーチをしているのだと私は感じました。

 

気が付いた者たちは行動をしていくのみ。

そして、その参加者が、参加国が多くなり、一人一人が一人の人間としてつながり、平和を作り出すという共通意識を持てるようにしていきたいということを伝えているのだなと私は思いました。

 

これがまさに本当の意味でのワンネスの意識だと感じました。

垣根を超えたところでの真のつながり。

人として共に歩むこと。

 

悲しみを互いに持ちながら、それを認め合い、ゆるしあい、悔い改める。

そのことをより意識して私たちが人と対峙したときに、

そこに本当の人間愛が生まれ、平和が生まれるのだと思うのです。

 

平和を叶える。

 

私も考え続け、実行し続ける一人になります。

 

今日も祈りと感謝を忘れずに…。

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愛の気づきだらけだった2017年♡

「私なんか」

謙遜なのかそれは本当に。

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私なんかができてるんだからみんなもできるよ!という考えが私の中に長い間あった。その考えほどむなしいものはないんだなということを実感した。

 

「私なんか」

 

という言葉には私なんかにはできてあたりまえなんだからみんなにもできるよという上から目線の言葉だったんだなーって。

よく、会社の上司とか、学校の先生が、

謙遜の意味らしく、

いやー俺なんてたいしたことないっすよ、とか、

いやー先生だってたいしたことないんだよ、とかいうけど、

まって。それ、本当にそうなんだろうか。

 

意外とダークな言葉なんだなと思うようになってしまった。

 

だって、私なんかにできるんだから、あなたにはできるよというのは、

もしも、その人ができたら、ほらね、できたでしょ?って言いたいからなんだろうか。

なんとなく、私はそうじゃない気がしてる、

できなかったときに、あれ?+やっぱり私じゃないとできないのかな?って思いたいだけなんじゃないかとか思ってきてしまって。

 

「あ、それすごいね」といわれたら

 

「そうでしょ!!!すごいでしょ笑」

といえるようになりたいなと思ったし、今度からそうしようと思ってる。

こういうのをいい意味での開き直りっていうのかな。

もちろん、自分で当たり前のようにやっていることが周りの人にとっては信じられないくらいすごいことっていうことって山ほどあるんだろうけど。

 

周りから、すごいといわれたり、褒められたりしたら、

そして、すごいでしょ、一緒にやってみようよ!といえるようになれたら、

素直で素敵だなと思うし、もっと自分のことを大切にできる毎日が過ごせるんじゃないかなって思う。少なくとも私は自分にストイックすぎるんだなーと思った。

 

「どうせむり」と「私なんて」

他人と自分をいじめない

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やさしさ

北海道でロケット作った植松さん。

私、この人のことがとても好きですし、

尊敬できる大人だなと思っているんです。

 

「どうせむり」

って言葉をなくしたい。

それだけで、私たちは子供たちに少しでもいい未来を残せる気がするって私も思います。

 

「私なんて」っていう言葉も同じかなと思う。

 

○○なんてとか、どうせ無理とか、

そんなの、やってみないとわからないじゃん。

今の大人ってそうやって私たちの夢や希望を、本当にかなわないものだと決めつけてきた。

たぶん、自分たちがそうやって決めつけられてきたから、ほかの人に対してもそうやって決めつけたいだけなんだろうなと思う。やり返す大人ってみっともないなーと思うけどね。

https://uematsudenki.com/%E8%AC%9B%E6%BC%94%E6%B4%BB%E5%8B%95/

 

せっかく北海道にいるんだし、今度植松さんに会いに行こうかな。

一緒に何か楽しいことできないかなって思う。

 

そういえば、この間はD×Pの今井さんと会った。

彼も、逆境があってここまで生きてきた素敵な人。

彼とも、何か私も一緒にやってみたいなと思った。

 

他虐、自虐をしなくなった大人たちは本当にこれからの未来を変えようとしているかっこいい大人だった。

逆境を本当の意味で乗り越えた人

本当の愛に気が付く

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逆境を本当に乗り越えた人って愛にあふれているんだなって思う。

そして、自分のやりべきことがよくわかってて、

楽しく、毎日を過ごしているんだなって。

 

被害者意識にも囚われてなくて、

むしろ、自分が犯してきた過ちにも向き合って、

未来のために自分が最低限できることを見失わずにずっと動き続けてる。

深く傷ついたあとに、人は人のことを恨んだり、憎んだりする。

たくさんおとなっていう存在に苦しめられた若者は、腐って、いったんぐれたりする。人をだますことも真似してしまったり、嘘を簡単についてみたり。

でも、そのたびに自分の中にある心の傷がうずいて苦しくなる。

 

そして、いつか、本当に自分の心の傷と向き合うことを決めたとき、

本当に「愛」するってどういうことなんだろうと考えるんだろうね。

 

みんな生かされてて、愛されてる

7年間の苦悩は愛の苦悩

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私は7年間、愛について悩んできたんだなということに気が付いた(腑に落ちた)。

 

15歳までの私は、憎い相手も、自分をいじめてきた相手も、

みんな人だから、同じ人間だから恨んじゃいけないんだと思っていた。

合わない人もいて当然だと思いながらも、それでも周りをゆるして愛せている自分が大好きだった。

 

でも、私はあの日を境に、信じていた存在から裏切られたり、

見放されたり、引き離されたりして、

大嫌いな人ができたり、憎い存在ができたりした。

その人たちは、命というものを本当にないがしろにする人たちで、

からしたら、本当にゆるせない人たちだった。

 

平気で人の命を捨てるような、

平気で人を殺すような神経をもつ人たちだった。

人として許せない人たちばかりだった。

でも、そんな人たちもやっぱり生きてる。

 

私はそんな人たちを見て、嫌いになって、憎くて、頭の中で何度も殺した。

ずるくて、ひどくて、卑怯で、何度も責めた。

 

私はそんな自分が悲しかった。

今思えば愛せない存在ができた自分が許せなかったし、愛せなくなった自分が悲しかった。平等に愛せない私なんていなくなってしまえばいいのにと思った。だから、たくさん傷つけた。

 

それだけ、私は純粋無垢だった。

一滴の墨汁が、ぽたっと半紙に落ちたみたいに。

真っ白の雪の上に、ぽたっと真っ赤な血が落ちたみたいに。

それがどんどん広がっていくのを感じていたんだと思う。

それがすごく痛かった。こころがグーッと締め付けられて、

つらかったんだなと思う。

 

「汝の敵を愛せ」なんて無理に等しくて、

自分には到底できないことなんだということを思い知った。

 

最近、それでいいんだと思えた。

むしろ、それでいいんだと。

愛せない人もいて、ゆるせないひともいて。

それでも私は今までここまで、生きてこれたじゃないかって。

自分、頑張ってここまで生きてきたし、生かされてきた。

導かれて、守られて、ここまできた。

それだけですごいことなんじゃないかって。

愛せない人ができた私のことも神様はゆるしてくれているから、

生かしてくれてる。

生きろと言ってくれたんじゃないかって思った。

それだけで、あー私の中にこんなに愛される素質があって、

生きる素質があってここまで来たんだなと思ったら、

自分を傷つけることはもうやめようと思えた。

 

愛せない人がいるから、

ゆるせない人がいるから、

私は祈る必要があるんじゃないかなと思う。

その人たちとゆるせない自分をゆるしてほしくて

頭を垂れて祈るんだなと。

 

 

マグダラのマリアの周りにいる人たちに

あなた方の中で罪のないものがこの者に石を投げつけなさいといった。

キリストが十字架にかかったとき、この人たちは自分が何をしているのかわからないのです。といった。

それがどういうことなのか、すごく理解できるようになった。

 

私は日曜学校にいっていたころ、

先生にこんなことを言われた。

 

君たち子供たちは神様の子供たち。

光の子たちなのだよ。

 

と。

 

神の子といえばイエスキリストだけだと思っていた私。でも最近ようやく先生が言っていた真意が分かった気がするのだ。

 

私たちも本当は神の子なのだと。

だから、イエスは神ではなく人としてこの地に来たんだと。

でも見本にしてはレベルが高すぎるし、到底イエスには及ばない。

でも私たちはその素質を持って生まれてきたんだと。

そのくらい私たちは子供のころ、愛に満ちていた。

いつの間にかおとなになって、子供のころのような純粋無垢さを失って、愛せたものが愛せなくなったり、使えていた力を忘れてしまったりする。

それでも神様が私たちを生かしてくれている。

それはやっぱり私たちが神の子だから。

いくつになっても。そして、この体がなくなっても、魂は残り続ける。

私の魂は愛の課題をクリアしたくて、この地にきて私という体を身にまとって、生活することを選んでくれたんだと思うと、うれしいなと思う。

 

今までのことは愛の課題だったと気が付いた2017年

来年は・・・?

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あれから7年たって、もう少しで8年目になろうとしてる。

2017年は後数日で終わる。

 

ろくでもない大人がたくさんいることもこの7年間で知ったけど、

一方すごくかっこいい大人がたくさんいることを知った。

特に今年は本当に素敵な大人と出会うことが増えた。

こころから、愛せる人たちともいえる人ともいえる存在と出会った。

 

私もそういうかっこいい、素敵な大人になれたらいいなと思う。

もっと来年は今年以上に愛に満ちた一年にできると確信してる。

私自身が自分を愛すことの意味が分かったから。

もう、私なんてとは言いたくないし、言わせない。

そのくらい、私は私のことを大切にしようと思う。

一度きりの人生だから。

心地よくて、楽しくて、幸せな毎日を過ごしたいから。

 

今年が、

ごめんね。ありがとう。お互いさま。おかげさまでにあふれていたように、

 

来年も、

ごめんね。ありがとう。お互いさま、おかげさまで。

が続きますように。

 

愛と対話がたくさん広がって、

少しでも幸せで、楽しくて、素敵な毎日が続きますように。

神様の愛に感謝して。