あいたいわ

「あい」と「たいわ」をテーマにしたブログ

今年もよく頑張りました★(^_-)-☆

2017年も終わり

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今年は自分が大きく成長した一年間でした。

いろんなことにチャレンジしてきました。

 

ながーいトンネルの先の光をようやく浴びることができた一年でした。

トンネルっていつか終わるんだなって。

そのタイミングは人によって違う。

トンネルが終わって、私は今一度、いろんな人に感謝しています。

 

いろんな人にであって、たくさんの刺激をもらいました。

 

本当に充実した一年間でした。

来年もはさらに自分を大切にした一年間にしたいなと思っています。

 

来年の目標

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来年の目標は書き出して、毎年手帳に挟んだりして持ち運んでいます。

大きく言えば来年の目標はよりたくさんの人に、

愛と光を広く伝えること。

私は悲しみや憎しみを広げたいのではない。

生きる希望や、愛、光。

私たちは完璧でなくとも、それを作り出す力を持っているはず。

それは年齢に関係なく。

深く、広く、祈りをもって過ごしていきたいです。

 

認識が存在を作り出す

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認識したことは現実になります。

存在を作り出します。

私たちが愛に基づいて行動できれば、そのように祈れば、

必ず、そのような世界になります。

 

私はあきらめなければ道は開けることを知っていますし、

神様は乗り越えられる人にしか試練を与えないことも知っています。

 

すべてのことには意味があります。

 

今、今日、このときに、

外で過ごしている人。

悲しみの課にある人。

戦火の中にある人、

苦しみの中にある人、

それでも年は変わる。

 

でも、私たちが本当に忘れてはいけないこと、

大切にしなければならないことは変わりません。

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悔い改めと祈りと感謝をもって。。。

皆さんよいお年を。

来年もよろしくお願いいたします。

人として繋がりたい

謝れる人

ごめんねと言える

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私達は一生懸命声をあげてきたんだよ。

。。それなのに。。それなのに。。
本当に、ごめんね。。


目の前で、Twitterで、メッセンジャーで、そんなことを言われたことがある。泣かれたこともある。

 

私はこんな風にごめんねを言える人と関われていることに私は本当に感謝しています。

 

事故が起こってから、
戦争が起こってから、
そんなことを言っても戻ってこない故郷と、
戻ってこない大切な人がいる。

 

それがわかってるからこそ言える一言だと思うから。。そのひとの悲しみや憎しみ、怒りが、深く理解できる人だと思うから。

 

今、自分の周りにはそういう人がバックについていてくれる。

本当に心強いです。

 

私がまだ15の時に被災して、今、こうして逃げて、自分で考えて生活をできるようになったのも、こうした皆さんのおかげなのです。

 

確かにたくさん私は傷ついたし、

大人のことも信じれなくなった。

 

でも、それは私が、人として、いろんな人とかかわる再出発としてすごく必要なことだったとも思うし、あの震災と原発事故があってよかったとはいえないけれども、私にとって大きな気づきと学びを与えてくれたと思っています。

 

 社会的な常識、垣根を超えた人と人とのかかわり

もうレッテルなんて気にしている場合ではない

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大人、子供の垣根ももちろん、
社会的地位もとっぱらって、
私は人としてみなさんと繋がりたいし、
活動していきたい。
対話していきたいし、
本当の優しさとか愛を実行していきたいです。

 

レッテルなんて、国家なんて、超えて本来はつながらなければ意味がない。

もう、時代は戦う時代から、対話と愛を実行する平和の時代へとシフトしているのです。

 

核廃絶と平和は愛と対話とワンネスが作り出す

ノーベル平和賞を受賞したサーローさんのスピーチ全文をまとめていらっしゃる方がいたのでリンクを載せておきます。

blog.livedoor.jp

生死に関わる問題について対話の余地すら本来はないと考えています。

人としてダメなものは駄目だということを言えない。

目の前に死のうとしている人に、大丈夫?といえないし、それは良くないということも言えないほど。

 

そして、それを子供たちに人として教えることができない世の中なのです。

強いて言えば、本来教えなくてもいいはずのことを教えなければならないほどに、この世の中は衰退しているし、末期。

 

今の世の中、相手の背景すら知ることもなく、頭ごなしに否定して、自分の正しさを押し付けようとします。それは私自身も人のことは言えず、いつの間にか、自分の正論を振りかざすような形で相手に話をしていることがしばしばあるのです。

 

私が大切だと思うのは、この言いようのない、虚無感にさいなまれて、被害者として沈黙するのではなく、ともに、ゆるし、悔い改め、お互いがどうしたら前に進めるのかを考え、行動することだと思うのです。

 

それがいかに人にとっての尊厳であって、守られなくてはならないものであるかということを伝えなければならないと思うのです。

 

一人ひとり、その立場、立ち位置に立つのに、タイミングが異なるかもしれません。それは、ある意味仕方のないことです。ほかのだれかがその人に気が付かせたい、気が付かせようなどということは傲慢なのですから。

 

サーローさんは、何かをするように強制しているわけではないのだということがスピーチからもよくわかります。

 

切なる祈りと、想いのスピーチをしているのだと私は感じました。

 

気が付いた者たちは行動をしていくのみ。

そして、その参加者が、参加国が多くなり、一人一人が一人の人間としてつながり、平和を作り出すという共通意識を持てるようにしていきたいということを伝えているのだなと私は思いました。

 

これがまさに本当の意味でのワンネスの意識だと感じました。

垣根を超えたところでの真のつながり。

人として共に歩むこと。

 

悲しみを互いに持ちながら、それを認め合い、ゆるしあい、悔い改める。

そのことをより意識して私たちが人と対峙したときに、

そこに本当の人間愛が生まれ、平和が生まれるのだと思うのです。

 

平和を叶える。

 

私も考え続け、実行し続ける一人になります。

 

今日も祈りと感謝を忘れずに…。

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愛の気づきだらけだった2017年♡

「私なんか」

謙遜なのかそれは本当に。

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私なんかができてるんだからみんなもできるよ!という考えが私の中に長い間あった。その考えほどむなしいものはないんだなということを実感した。

 

「私なんか」

 

という言葉には私なんかにはできてあたりまえなんだからみんなにもできるよという上から目線の言葉だったんだなーって。

よく、会社の上司とか、学校の先生が、

謙遜の意味らしく、

いやー俺なんてたいしたことないっすよ、とか、

いやー先生だってたいしたことないんだよ、とかいうけど、

まって。それ、本当にそうなんだろうか。

 

意外とダークな言葉なんだなと思うようになってしまった。

 

だって、私なんかにできるんだから、あなたにはできるよというのは、

もしも、その人ができたら、ほらね、できたでしょ?って言いたいからなんだろうか。

なんとなく、私はそうじゃない気がしてる、

できなかったときに、あれ?+やっぱり私じゃないとできないのかな?って思いたいだけなんじゃないかとか思ってきてしまって。

 

「あ、それすごいね」といわれたら

 

「そうでしょ!!!すごいでしょ笑」

といえるようになりたいなと思ったし、今度からそうしようと思ってる。

こういうのをいい意味での開き直りっていうのかな。

もちろん、自分で当たり前のようにやっていることが周りの人にとっては信じられないくらいすごいことっていうことって山ほどあるんだろうけど。

 

周りから、すごいといわれたり、褒められたりしたら、

そして、すごいでしょ、一緒にやってみようよ!といえるようになれたら、

素直で素敵だなと思うし、もっと自分のことを大切にできる毎日が過ごせるんじゃないかなって思う。少なくとも私は自分にストイックすぎるんだなーと思った。

 

「どうせむり」と「私なんて」

他人と自分をいじめない

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やさしさ

北海道でロケット作った植松さん。

私、この人のことがとても好きですし、

尊敬できる大人だなと思っているんです。

 

「どうせむり」

って言葉をなくしたい。

それだけで、私たちは子供たちに少しでもいい未来を残せる気がするって私も思います。

 

「私なんて」っていう言葉も同じかなと思う。

 

○○なんてとか、どうせ無理とか、

そんなの、やってみないとわからないじゃん。

今の大人ってそうやって私たちの夢や希望を、本当にかなわないものだと決めつけてきた。

たぶん、自分たちがそうやって決めつけられてきたから、ほかの人に対してもそうやって決めつけたいだけなんだろうなと思う。やり返す大人ってみっともないなーと思うけどね。

https://uematsudenki.com/%E8%AC%9B%E6%BC%94%E6%B4%BB%E5%8B%95/

 

せっかく北海道にいるんだし、今度植松さんに会いに行こうかな。

一緒に何か楽しいことできないかなって思う。

 

そういえば、この間はD×Pの今井さんと会った。

彼も、逆境があってここまで生きてきた素敵な人。

彼とも、何か私も一緒にやってみたいなと思った。

 

他虐、自虐をしなくなった大人たちは本当にこれからの未来を変えようとしているかっこいい大人だった。

逆境を本当の意味で乗り越えた人

本当の愛に気が付く

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逆境を本当に乗り越えた人って愛にあふれているんだなって思う。

そして、自分のやりべきことがよくわかってて、

楽しく、毎日を過ごしているんだなって。

 

被害者意識にも囚われてなくて、

むしろ、自分が犯してきた過ちにも向き合って、

未来のために自分が最低限できることを見失わずにずっと動き続けてる。

深く傷ついたあとに、人は人のことを恨んだり、憎んだりする。

たくさんおとなっていう存在に苦しめられた若者は、腐って、いったんぐれたりする。人をだますことも真似してしまったり、嘘を簡単についてみたり。

でも、そのたびに自分の中にある心の傷がうずいて苦しくなる。

 

そして、いつか、本当に自分の心の傷と向き合うことを決めたとき、

本当に「愛」するってどういうことなんだろうと考えるんだろうね。

 

みんな生かされてて、愛されてる

7年間の苦悩は愛の苦悩

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私は7年間、愛について悩んできたんだなということに気が付いた(腑に落ちた)。

 

15歳までの私は、憎い相手も、自分をいじめてきた相手も、

みんな人だから、同じ人間だから恨んじゃいけないんだと思っていた。

合わない人もいて当然だと思いながらも、それでも周りをゆるして愛せている自分が大好きだった。

 

でも、私はあの日を境に、信じていた存在から裏切られたり、

見放されたり、引き離されたりして、

大嫌いな人ができたり、憎い存在ができたりした。

その人たちは、命というものを本当にないがしろにする人たちで、

からしたら、本当にゆるせない人たちだった。

 

平気で人の命を捨てるような、

平気で人を殺すような神経をもつ人たちだった。

人として許せない人たちばかりだった。

でも、そんな人たちもやっぱり生きてる。

 

私はそんな人たちを見て、嫌いになって、憎くて、頭の中で何度も殺した。

ずるくて、ひどくて、卑怯で、何度も責めた。

 

私はそんな自分が悲しかった。

今思えば愛せない存在ができた自分が許せなかったし、愛せなくなった自分が悲しかった。平等に愛せない私なんていなくなってしまえばいいのにと思った。だから、たくさん傷つけた。

 

それだけ、私は純粋無垢だった。

一滴の墨汁が、ぽたっと半紙に落ちたみたいに。

真っ白の雪の上に、ぽたっと真っ赤な血が落ちたみたいに。

それがどんどん広がっていくのを感じていたんだと思う。

それがすごく痛かった。こころがグーッと締め付けられて、

つらかったんだなと思う。

 

「汝の敵を愛せ」なんて無理に等しくて、

自分には到底できないことなんだということを思い知った。

 

最近、それでいいんだと思えた。

むしろ、それでいいんだと。

愛せない人もいて、ゆるせないひともいて。

それでも私は今までここまで、生きてこれたじゃないかって。

自分、頑張ってここまで生きてきたし、生かされてきた。

導かれて、守られて、ここまできた。

それだけですごいことなんじゃないかって。

愛せない人ができた私のことも神様はゆるしてくれているから、

生かしてくれてる。

生きろと言ってくれたんじゃないかって思った。

それだけで、あー私の中にこんなに愛される素質があって、

生きる素質があってここまで来たんだなと思ったら、

自分を傷つけることはもうやめようと思えた。

 

愛せない人がいるから、

ゆるせない人がいるから、

私は祈る必要があるんじゃないかなと思う。

その人たちとゆるせない自分をゆるしてほしくて

頭を垂れて祈るんだなと。

 

 

マグダラのマリアの周りにいる人たちに

あなた方の中で罪のないものがこの者に石を投げつけなさいといった。

キリストが十字架にかかったとき、この人たちは自分が何をしているのかわからないのです。といった。

それがどういうことなのか、すごく理解できるようになった。

 

私は日曜学校にいっていたころ、

先生にこんなことを言われた。

 

君たち子供たちは神様の子供たち。

光の子たちなのだよ。

 

と。

 

神の子といえばイエスキリストだけだと思っていた私。でも最近ようやく先生が言っていた真意が分かった気がするのだ。

 

私たちも本当は神の子なのだと。

だから、イエスは神ではなく人としてこの地に来たんだと。

でも見本にしてはレベルが高すぎるし、到底イエスには及ばない。

でも私たちはその素質を持って生まれてきたんだと。

そのくらい私たちは子供のころ、愛に満ちていた。

いつの間にかおとなになって、子供のころのような純粋無垢さを失って、愛せたものが愛せなくなったり、使えていた力を忘れてしまったりする。

それでも神様が私たちを生かしてくれている。

それはやっぱり私たちが神の子だから。

いくつになっても。そして、この体がなくなっても、魂は残り続ける。

私の魂は愛の課題をクリアしたくて、この地にきて私という体を身にまとって、生活することを選んでくれたんだと思うと、うれしいなと思う。

 

今までのことは愛の課題だったと気が付いた2017年

来年は・・・?

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あれから7年たって、もう少しで8年目になろうとしてる。

2017年は後数日で終わる。

 

ろくでもない大人がたくさんいることもこの7年間で知ったけど、

一方すごくかっこいい大人がたくさんいることを知った。

特に今年は本当に素敵な大人と出会うことが増えた。

こころから、愛せる人たちともいえる人ともいえる存在と出会った。

 

私もそういうかっこいい、素敵な大人になれたらいいなと思う。

もっと来年は今年以上に愛に満ちた一年にできると確信してる。

私自身が自分を愛すことの意味が分かったから。

もう、私なんてとは言いたくないし、言わせない。

そのくらい、私は私のことを大切にしようと思う。

一度きりの人生だから。

心地よくて、楽しくて、幸せな毎日を過ごしたいから。

 

今年が、

ごめんね。ありがとう。お互いさま。おかげさまでにあふれていたように、

 

来年も、

ごめんね。ありがとう。お互いさま、おかげさまで。

が続きますように。

 

愛と対話がたくさん広がって、

少しでも幸せで、楽しくて、素敵な毎日が続きますように。

神様の愛に感謝して。