あいたいわ

「あい」と「たいわ」をテーマにしたブログ

ただで○○して

価値ってなんだろう

@kana_vn1222さんのツイート: https://twitter.com/kana_vn1222/status/1028926471010627584?s=09

ただで、話して?
っていうのも悲しくなる。

とはいえ、お金払ったんだから○○しろとか、みかえりを求められるのもうんざり。

(とりあえず、今のところ講演会をしていて、そんなことを言われたりしたことは無い。)

三浦綾子の氷点に、夏枝が貰ったものにはとにかくいちゃもんをつけるというシーンがでてくる。

戴いたもの、与えられたものを素直に受けとることができない。

つねに、みかえりを求める

こうしてみると、私はそんなことしないと思う人もいるかもしれないが、気がつかぬところで私達はこういうことをしている。(神からの無償の愛に背く日々)

ましてや、戴いたもの、与えられたものは必ずしも自分にとって善いものとは限らないのだから。

戴いたもの、与えられたものに
善い悪いもない。

ただ、相手へのリスペクトのない言動は互いにもう一度考えた方がいい。

自分がリスペクトされるはずもないような言動をそもそもしていないか。
相手は思いやりをもっているのか。

人間性を問う人間性

人間性を問う人間性について、友人から言及されたことがあるが、結局、相手は自分を写し出す鏡。相手の人間性を問うた時には、自らの人間性をも問う必要がある。それが、キリスト教でいう悔い改めに繋がるのだろう。

まぁ、周りからただで、○○して。
と言われる筋合いはない。
私から言うことはあっても。
こんなご時世だし、私の場合なにか肩書きがあるわけでもないから、講演料は○○円ですとか自分からあんまり言いたくないし、言う資格もないかなと思ったりも。
それでいて、肩書きとかがついたからといって、お金とりますもなんか違うのかなと思ったりして。

結局大切なのは肩書きじゃない。肩書きなんてレッテルにすぎないのだから。結局その人の人間性なんだろうなと思う。

ちなみに、私は講演会でお金をいただくことはあるけれども、お金ではなく、人脈や土地、小物、お野菜など、もっと違う価値のあるものをいただくこともある。なによりも、心からのありがとうだけで、私はもう充分。御馳走様。おかげさま、お互い様で、ありがとう。

 

さくらんぼ


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いつぶりだろうか。
三年、四年ぶりぐらいになるだろうか。
さくらんぼを食べた。
モモに関してはあの日以来口にしていない。

仁木町のさくらんぼ。
山形はさくらんぼで有名。
ただ、怖くて私は食べれずにいる。

どこのものが安全で安心かなんて分からなくて、いつもロシアンルーレットに怯えている。

これから先結婚もせず、子供もうまずに、いつ死んでもいいやと思えたらもしかしたら産地も農薬も添加物もなにもかも気にしないのかもしれない。現状に落胆しながらも、未来に希望なんて持てるかよと思いつつも、結局どこかで何かに期待してるのか、自分を傷つけたくないのか、怖いのか、いろんな気持ちが結局混ざりあってる。

どっちが安全というより、私自身が安心して生きていけることが第一なんだよなと思って今は過ごしている。

山形のさくらんぼは甘くて美味しい。
仁木町のさくらんぼは酸味があって爽やかでこれはこれで美味しい。

でも、好みは山形のさくらんぼ。

桃はまだ食べれてない。
食べると思い出すからかもしれない。
あぁ、福島の桃は…って。

今年はどこか安心できる桃を買って食べようか。

いろんなことにビクビクしながら、
ゆらゆら揺れる毎日に戸惑いながらも、
私は私でいいんだよ。と自己肯定している。

誰かに誉められるわけでもない。
誉めてほしいわけでもない。

誰かに謝ってほしいわけでもない。

ただ、何が安心かとか、安全かとか、それこそ、何が常識とか、正しいとか、間違ってるとか、真髄に遠いところで平行線で話が続いているのを感じると、虚しくて。

ぶっちゃけ、そんなこと、どうでもいいじゃん。

なんでみんな争うんだろう。
なんでみんなホントに大切なものを大切にしないんだろう。
そして、なんで、大切なものを大切にしている人を叩くんだろう…。

私は純粋なんだと思う。
そして一方で真っ黒なんだと思う。
真っ白なのに真っ黒。
そんな両方を持ってて混ぜてグレーにして。
でも、そのグレーに温さも感じてて。

どうしたらいいんだろう。
でも、私はそもそも何に悩んでたんだっけ。
泣きながらいつの間にか朝になっていたこともあって。

明けない夜なんてないのに。
明けなければいいと願ってる私もいたりして。

もっと前向こうよ。

と言われても。屈折してる私にはそんな言葉は的はずれな一言にしか過ぎなくて。でも、それでも、その人の優しさも感じてて。

私はふんわりと笑ってみることしかできない。

そのうち、この屈折具合を本にしてみようかと思って数年が経った。きっと、ドロッとした作品になると思う。熱いのか冷たいのかもわからないような気持ち悪さを含んだもの。

でもそれって、今の社会そのものだと私は思う。表面が温度のわからない透明の何かでコーティングされてるだけで、中身はそんな感じだと思う。

ほんとに、得たいの知れないものをみすぎて疲れてる。

さくらんぼ。おいしかった。

ざっくばらんに村本大輔さんの話と高学歴で霞んだ未来の彼女のことを考える夜

もし

たとえばここでアベさんが自殺したとする。

ひどい例えで申し訳ない。

 

その遺書には

社会に殺された

と書かれていたとする。

 

そしたら、社会を構成する人間が国民であるならば、国民がアベさんを殺したことになるんだけど、それってどう思う?死んだやつの勝手だと思うのかな。

 

冷たいよね。この社会って。
そして、そこに愛がないなとおもう。

 

綺麗事かな。
でも、私は思うよ。アベが自殺したら、やっぱりこの国の根幹は変わらないし、きっと、他の誰かが死ぬことと同じようにその事をTwitterFacebookに投稿して、写真撮って、あげて。それはそれで気持ち悪いなと思う。

 

あぁ、やっと死んでくれた

っていうのかな。

 

 

ある意味アベが、今のこの負の社会が生き甲斐で、それをおかずにしてご飯食べてる人が多い気がしない?

 

それで貴方はせいせいする?
 

たとえば、東電の社長。

責任はとるべきだと思う。

でもね、私は彼らに死んでほしいと思ったことはない。

 

綺麗事?

偽善者?

うそこけ。って?

 

対話もなければ愛もない。

この国には。

というか、この国の国民には。

でも、それはすごく側面的なことかもしれない。ほんとはもっと気がついてる人がいるかもしれない。あくまで希望的観測だけど。

 

犯罪者だったら死んで当然なのか
 

 

犯罪者が死刑で殺される。または捕まる前に自殺していなくなる。

 

それって、問題解決になるんだろうか。すべての物事には背景があるのに。なんでその背景を知らずに、調べずに、すべてが終わったかのように振る舞うんだろう。

 

結局今まで歴史から学んでこなくて原発事故が起こったことと何らかわりないことだよね。

 

明日は我が身

アベは信じられない。

オウムは信じられない。

私はそんなことをいっているあなたが信じられない。というか、信じるつもりもないのだけど。

 

みんなで赤ら顔で乾杯。

確かに腹立つけど、

私から言わせたら、

東電の電気を使って東京のネオンがピカピカしてることになんの疑問ももたず、

ただ綺麗だね

バブルだね

弾けたね

やばいね

ピカピカだね

ってのうのうとしていたくせに、どの口が言ってるんだろうかと。

 

貴方もアベ。

もちろん、今札幌で過ごしてる私もアベ。

 

オウムがやったこと信じられないって?

でも、そのオウムを楽しくメディアにとりあげて尊師と言ってた人がたくさんいたんだよね。

そのあと、犯罪者だとわかったとたんに、手のひら返してやっぱり変だと思ったんだよねとか、騙されたとか。

 

でもさ、この社会の根幹がおかしいと思った末に、あの人たちは犯罪者になった。

 

それってさ、この社会の黒さを彼らが身をもって犯罪者になって実行したということでしょ。それって、私たちの心の闇と何が違うんだろう。実行にうつさないだけで、暗黙的に人をバカにしたり、死ねと言ってみたりする大人を間近に見て、想像力がないがゆえに発せられる心ない言葉で傷ついてる今の子どもたち、若者は今どうなってるんだろう。

 

何が違うの?

オウムの彼らを追い込んだのはだれ?

そして、追い込まれたのはだれ?

 

DNA は覚えてる


誰が私のことを覚えてるんだろうってたまに思うんだよね。今日村本大輔さんも言ってたけど、たぶん、私たちの体はDNAに色々歴史が刻まれてるんだよね。それを私たちは受け継いでて、セックスして、子どもができる。歴史を紡ぐってそういうことなんだろうなと思うんだよね。受け継がれてくもの。刻まれてくもの。

 

私のことはきっと、遺伝子が覚えててくれて歴史としてDNA に残るんだろうね。計算能力をこの地球という星に残して。

 

何が言いたいか
混沌としすぎてて、色々と見失ってる人がいすぎて、私も目が霞んで最近辛い。

 

何が言いたいか。

愛がない。ほんとに。
私にも貴方にも。

 

そしてね対話できてない。ほんとに。

私も貴方も。

 

ゆるしあえたらいいよね。

本当の意味で。

許すんじゃなくて、赦すんだよね。

とってもむずかしいけど、シンプル。

 

私が私の生き方を尊重して生きていけたら、私が私を知っていて、私が私のために生きれたら、本当は周りからの評価なんてたいした問題ではない。

 

自分の幸せに真剣になれない人に

相手の幸せに真剣になれるわけもない。

 

自分に正直でない人が

相手に正直であるはずがない。

 

ただ、人を殺す、傷つけるのは本当にやっちゃダメだ。そのことによって、救急車、パトカー、消防車、この車には乗らないでほしいし、お世話になってほしくない。

 

原発事故でもなんでもそうだけど、

あってよかった悲劇なんて一つもない。

でも、あったからこそ気がついたことがたくさんあって、たくさんの人と知り合えた。私はそれがすごく幸せ。

 

残酷で苦しくて真っ黒な闇だけど

すごく幸せでもあって、

でも、それがすごく不謹慎な気もして、

でも、それがまた真理な気がして。

光な気がして。

 

一歩間違えたら、気がついた人は誰もが犯罪者になり得る。

 

でも、そのなかで闘わないと決めて、

自分の中にある愛を実行できればそれでいいんじゃないかなと。

 

ジハードなんていらない。

神の名前で正義を語るなと私は思ってる。

 

量子重ね合わせの状態なら

きっと神様がいると信じるからそこにいて、

神様がいないと信じるからいない。

それっているかいないかわからない状況っていうことを意味してる。

 

何が言いたいかって、

信じたいものを人は信じてる。

見たいように見て、ききたいようにきいてる。

 

それが子どものように純粋であり続けたいと思う。無理なんだけどね…。

 

でも、それでも、私は今日も明日も生きていきたいんだよね。

 

そう思えるようになった私に心からの拍手。

そして、私に関わってくれたすべての人にありがとう。

 

おやすみなさい。

 

徒然なるままに…

混沌とした社会の中で

 

こんにちは。

最近、ますます、政府の動きが意味の分からない方向に走っています。

モリカケはもちろん、

汚染土の再利用に向けた動き、

種子法廃止の動き…。

 

大人たちが、平気でうそをつき、

自分たちの都合のいいように今を生きています。その身勝手さが、子供や若者を苦しめています。

 

本当に悲しいことだなと思います。

しかし、一方で私ができることは…と考えた時に、

一人の人間としてできることは目の前にいる人をどうしたら愛せるかということなのかなと思っています。

 

え、それって何が関係しているの?

社会問題とどうして愛が関係するの?ということを思われる方もいるでしょう。

 

私は、原発事故の時に、身近な人たちを守り切れない人たちの姿を見てきました。

それは私も例外なくその姿を見てきた一人でした。

 

私は同時高校生でしたが、本当に自分ではどうすることもできず虚しかったです。

 

例えば、それなりのお金と地位、住む場所、仕事がなければ生きていけないというシステム。多くの大人たちはこの社会システムに従って生きることが正しいことだと思っています。このシステムから脱却するために、私たちはどうしたらいいのかなと私は日々考えて行動しているのです。

 

自分への想いは相手への想い

 

私のブログでは何回も出てくるワードですが、本当にこれは事実で、自分に対してナイフをむけるひとは他人に対してもナイフを向けます。

 

今社会が混沌としているので、どうしても社会システムを叩きたくなります。時には政治家を叩いてみたりするわけです。しかし、叩いているだけでは何も変わらないのです。

 

結局、周りを変えるということは本当に難しくて、相手が大きな力(圧力)を持っていればいるほど、変えるということは難しいです。

 

ただ、相手が変わらないからなにもしなくて良いということでもないですし、「どうせ無理」と諦めるのは話が違うと思っているのです。

 

まずは自分を受け入れて変えよう

 

自分への想いは相手への想い

これは逆も然りで、相手への想いは自分への想いなのです。

自分の変化がなければ周りが変わるということはまずあり得ません。

勝手に周りが何とかしてくれるという「甘え」が結局、今の社会システムにつながっているということを考えれば、まず、自分ができることを精一杯にするということが大切なのだと私は思うのです。

 

生きるということを真剣に考えた時に、

実は最後の壁というのは自分自身にあると思います。

 

自分がどうしたいのか、本当は何がしたいのか。

自分の意志があって初めて、自分の人生を歩むということができるのです。

生きるということを他人に任せないということは自分の足で生きていくということなのです。それは本当の意味での自己責任なのです。

 

そのとき、社会システムが自分の気持ちの邪魔をするということもあります。

たとえば、本当は引っ越しがしたいけどお金がない。

これが本当に本音ならば、お金を準備する必要があります。

それならば、早く引っ越しできるように、仕事を増やしたり、なんらか血眼になってお金を集めることになります。

 

ただ、ここで、何もせずに、ただ「お金がないから」といってただ胡坐をかいていてもお金はふってきません。そこで胡坐をかくのは「甘え」なのです。

 

何が「甘え」なのか

 

よく、精神障碍者にお前は「甘えてる」と言ってるひとを見ます。

ただ、私は一概にそういうことは言えないと感じています。

例えば、本当に途方に暮れるほどに絶望的な出来事も世の中にはあります。何を絶望的な出来事と感じるかは人それぞれです。人の痛みを本当に理解することはできないのです。寄り添うことしかできません。

 

甘えとは

 

努力の余地があるのにも関わらず、何もしないということは「甘え」なのだろうなと思うのです。「だったらこうしてみたら」という対案が出てこない状態というのは本当に苦しいものです。

 

想像力と創造力を欠いた状況でただ、そこに甘んじているという場合、周りから甘えていると言われても仕方がない場合もあるのでしょう…。

 

どんな問題にせよ第三者がそれが甘えかどうかということは一概に判断できないことだと私は感じています。

 

悲しみから哀しみに

 

許すことはできなくとも赦すことはできるはずだと私は思っています。もちろん、私は神ではないので全てがそうだとは言えませんが。

 

ただ、悲しみが哀しみになるときというのは慈悲にも近いものでしょう。

 

もう、悲しみを争いに繋げることは止めなければならないと私は思うのです。

 

憎しみがあることは愛があることの裏返しです。

 

私たち一人一人にも社会を変える力があるはずで、「生きていく」仲間としてささえあうことはできるはずです。

 

光の子たちに未来のバトンを渡すために、今日も1日祈りをもって生活したいです。

 

 

万引き家族をみて

社会の歪みは人の歪み

 

この映画を見て叩くひとの気持ちがよくわからない。万引きがいいことかどうかとか、カップラーメンが高いか安いかとか、そういうことが問題ではない…。

 

本当の豊かさとはなんだろうか。

本当の家族とはなんだろうか。

と私は思った。

 

社会の闇をとことんみせてくる映画だった。あと味がどんどんでてくる。そんな映画。

社会の側の問題はこの社会にすむ人々自身の問題ではある。ただ、それにしてもこの国は権力や金に弱く、それを持ち得ない者は弱者として扱われてしまうという不公平で理不尽な社会システムだといえるだろう。そのシステムから脱却するために一人一人の生き方が問われているということは言わずもがなだと思う。

 

すべてのものごとには背景がある

 

主に映画の後半、登場人物たちの背景が明かされる。

 

虐待は連鎖するものだと言われている。貧困も同様に。虐待した親の背景をみてみれば、そこには貧困、DV、インナーチャイルドの傷など、とにかく愛が欠乏した状態であることがわかる。

 

虐待は自分がされたから、という理由でなんの疑問もなく子供を頭ごなしに怒鳴り、たたき、暴言などで傷つける。というパターンも多い。

 

最近読んだ本で大人になりきれない人の心理というものがある。大人になりきれていない「大人」たちは、自己肯定感も低く自分のことを愛せない。

 

再三、ブログで述べているが自分を愛せないひとは相手も愛せない。自分を愛せない理由の多くはインナーチャイルドが癒されていないからなのだが、その事についてはまた別にまとめたい。


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悔い改めと赦し

 

悔い改めと赦し、愛と対話があるからこそそれぞれの社会環境は健全になるのだろうなと改めて感じた。本当の「家族」という社会環境もそうなのだろうなと。

 

 悔い改めのためには受け入れるというプロセスがあるのだが、受け入れるというのは、虐待を許すということではない。

 

虐待があったという事実を認めるということなのだ。その問題から目をそらしていては、解決にはならない。

 

ただ、残念ながら血の繋がりは絶つことはできず、その親の子であることには変わりがない。どれほど対立したとしても。だからこそ、対話し続ける努力が必要で少しでも愛を持ち寄ることが大切なのだろうなとも思うのだ。赦すとはそういうことなのだと私は思う。許すことはできなくとも、親には親の背景があることを知り、それぞれ違う人間で他人であることを認識するだけでも赦しになり、親からの心理的な自立にも繋がる。

 

 

本当の豊かさというのは、心の豊かさがあることなのだろうな思う。ゆとりがあって、お互いを認めあえる、尊重できる。そんな本当は当たり前のことができるということが、本当の豊かさなのだろうなと。

 

物質的な豊かさほど脆いものはない。

どれほどお金があっても、どれだけ男、女に囲まれていようと心の傷はうまない。

それは、私も自分の経験からよくわかっている。ただ、むなしいだけなのだ。

 

万引き「家族」は肉親よりも愛があり、豊かさがあったのだろうなと思う。死の淵まで行ったからこそ「生きる」ことの重みが分かる。本当は生きるだけで、価値があるはずなのに。そこに人の欲が絡むだけであっという間に目の前に靄がかかる。

 

暗いトンネルの先に出口があるということは出口を見るまで信じられないかもしれない。それは神やイエスを見るまでは信じられないと言ったイエスの弟子たちや地域の住民、時には立法学者たちと同じなのだ。

 

それでも信じて歩いていくしかない。

これは自分自身をどれだけ信じれるかということでもある。

それが正に真の信仰心であり、自分が自分であることを受け入れ、悔い改め、赦しを乞い祈るということなのだと思う。

 

神の国を求めること

 

求めよさらば与えられん

という言葉がある。

 

神の国を求めることは私たちにとって、愛と対話の国を求めることと同じなのだろう。

これはキリスト教だからとか仏教だとか宗教の違いは関係ないことだと私は思う。

求めよさらば与えられん

という言葉は私たちが本当に心のそこから、いや、魂の底から望めば与えられるということを言っているのだと思う。

その上で

神の国を求めよ

という言葉をみれば、私たちが神の国を求めることは不可能ではなくそれは実現できることなのだということがわかる。

 

アダムとエバが神の国から追い出されたとき、女が蛇に唆され果物をたべ、男にもすすめて食べさせた。

 

私は女性が女性性と男性性を統合させることは神の国を求める上でとても大切なことなのだろうなと確信している。

 

社会を変えるのは想いと行動なのだ。

つまり女性性と男性性がバランスをとって、協力していけば社会を変えられるということでもあるのだ。

 

「家族」に「なる」

万引き家族は家族になろうと努力をした。

家族であることが当たり前なのではない。

愛は意思であるように、

家族も意思によって家族になるのだろう。

 

素晴らしい映画だった。

ありがとう…m(_ _)m

 

 

 

近況報告

久々の更新!もう5月もおわり!?

 
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皆さんお久しぶりです。

わたしは毎日多忙ながらにして充実していて楽しい毎日を送っています。

 

もう講演会も数をこなしてきました。

 

自分が本当に伝えたいことを伝えられるようになって、わたしは本当に嬉しく感じています。

 

若者のシェルター


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若者のシェルターを作りたいとわたしは思っています。

ただ、なんか、タイミングが来ない。作れていないという現状があります。

 

まだ会うべき人に会ってない。そんな気がしています。

 

持続可能な社会作りを目指して


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持続可能な開発 - Wikipedia

私の講演会はまさにこのことに直結しているなと感じています。

 

もう、誰も苦しまないでほしい。そんな気持ちでいっぱいなのです。

 

それは大人も子供も関係なく。人が傷ついていくことが耐えられない。

 

持続可能な社会をつくるのに、大切なのは愛と対話だと思います。人としてどうありたいのか。ただそれだけが大切なのだとわたしは思っています。

 

インクルーシブな社会を目指して


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持続可能な社会はインクルーシブな社会でつくられていくと私は確信しています。

共に生きて行くということの本当の意味を理解したときに、はじめて、私たちは持続可能な社会を実現できると思うのです。

 

講演会が終わりました

講演会が終わって

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講演会が終わって、振り返りをしようと思いつつもなかなか気持ちが前向きにならず、更新ができずにいました。

 

講演会はとてもよいものになったように思っています。

多くの方が来てくださって、涙をぬぐう場面も多くありました。

 

私が講演会で伝えたこと。

それは「生きる覚悟」の意味です。

 

私たちは自分以外の多くの物事によって動かされているとも考えることができます。

しかし、そこで動かなければならないのはどう考えても私自身でしかありません。

生きていくのは自分なのだという気持ちがなければ、人は自分の人生に後悔します。

もっとこうしておけばよかった。

あのとき、あの人がこういった。

そんな言葉で人生を振り返ることになります。

 

罪のない子供たちへの負債

今の大人たちは未来のある子供たちを追いやっています。

それも、弱い立ち位置に。

私もそうでしたが、

「社会出たこともないようなお前が偉そうなことを言うな」

「子供なんだから黙ってなさい」

といわれ、今の子供たちや若者は無理やり、社会の決めた方向へ前ならえをさせられます。

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子供たちは非常に感受性が豊かです。

そして素直です。

そうした子供たちがもしも、大人たちのそうした圧力を受けたらどうなるでしょうか。

もちろん、大人たちにそう言わせている社会システムがあるということも問題です。しかし、その社会システムの中で最も傷ついているのは紛れもない罪のない子供たちなのです。

 

罪のない子供たちがこれ以上苦しむことがあってはならないのです。

 

私は罪のない子供・若者を少しでも救出したいと考えています。

社会的システムによって苦しい立場にある子供たちが少しでも休んで前向きに日々を生きるためのすべを身につける場所が必要だなと感じています。

私はそれは自然とふれあい、動物に触れ、人に触れることだと感じています。

 

汚染地にすむ子供たちが保養をするように、

腐った社会システムの中に住む子供たちもやはり保養の場所が必要だと確信しています。

 

子供たちの心を回復させるために、想像力を取り戻すための活動をしていきたいと私は考えています。ただ、一人で活動するのはあまりにも無理があります。皆さんの協力が必要です。

 

ひとまず、道東方面で、生きるために必要な一戸建て住居と畑にできる敷地(農薬等を撒いていない)の確保をしたいと考えています。

 

今回の講演会のカンパは今後の講演活動の資金源にさせていただくとともに、シェルターづくりや、私が個人的に応援している団体へ寄付にあてさせていただきます。

 

今後ともよろしくお願いいたします。